安土城址を散策する

安土城址

織田信長公が天下統一を目標に、
天正四年(一五七六)一月十七日、
重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え、
標高一九九mの安土山に築城させた平山城。
岐阜城よりも京に近い利便性があり、
北陸・東海の要所であった。

城址一周は約四十五~九十分

受付を通って大手道を登り切ったあと、
天主閣方面に向かって右折する。
信長公本廟に立ち寄ってから、
本丸跡を通り、天守跡へ。

遥かに望む琵琶湖や内湖、
天主跡にて在りし日の天主閣を思い
信長が成し遂げようとしたことに思いを馳せる。

来た道を戻って摠見寺跡方面へ。
大きな摠見寺跡からは西の湖が見渡せ、
重要文化財の三重の塔や二王門をくぐり抜けて、
階段を降りていくと道なりに受付方面へ戻ることができる。

安土城址は国の特別史跡で、
琵琶湖国定公園第一種特別地域でもある。

大手道を登る

受付を通ると目の前には大きな石段が真っ直ぐに伸びている。これは安土城の表玄関ともいえる大手道。
左右には重臣の邸宅があった。まずすぐ右には前田利家邸跡、ついで左には羽柴秀吉邸跡、その向かいには現在の摠見寺仮本堂のある徳川家康邸などである。

安土城址の大手道には、いくつかの石仏が見受けられる。
これらの石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものである。
城普請に使用する多くの石材は近郊の山々から採取したが、石仏や墓石なども含まれていた。
出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものだが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存している。趣旨をご理解の上見学して頂きたい。

武井夕庵邸跡から黒金門跡へ

大手道には他の武将の邸宅跡もある。
家康邸の上には、織田信長の右筆であり信頼の厚かった武井夕庵(たけい・せきあん)の邸宅跡があり、その前を登り切ると、右が天主跡へ、左は摠見寺跡へとなる三叉路になる。
この三叉路のあたりは織田信忠邸跡である。信忠は信長の長男として生まれ、若くして家督を譲られ織田家の後継者であり武功もあげたが、本能寺の変の際に自刃した。
三叉路を右へ折れ黒門跡へ向かう途中、左側に森蘭丸の名で知られる森成利邸跡がある。蘭丸は信長の側近として随侍し敵方との折衝などにも力を発揮した。

黒金門跡

安土城中枢部への入り口である黒金門は、ここまでの石垣に比べ、とくに大きな石を使って組まれている。
この黒金門も天主と共に火災に遭ったことが分かっており、発掘で見つかった焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋などの金箔瓦も含まれていた。
この黒金門から先の一帯の建物群は多層的に結合されていた可能性が見出されている。天主にいたる通路や八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたであろう。

二の丸跡の信長廟

黒門跡をすぎ、仏足石を拝むと、二の丸跡に到達する。
ここには信長公のお墓である信長本廟がある。
ご存知の通り、信長公は本能寺の変で自刃したとされる。その歳49。しかしながら、その遺体は見つからなかったというのは有名な話である。
そのため、全国各地に織田信長を供養する墓は多く存在する。
たとえば、武将のお墓が多くある高野山奥の院、豊臣秀吉が信長公の供養のためにたてた京都大徳寺の総見院のお墓、同じく京都妙心寺の玉鳳院にもある。ほかにも供養塔はもっと存在する。
しかしながら、天下布武を目指した信長公がその目的をこめたこの安土城の城址にある本廟こそは、信長公の魅力に惹かれて訪れる方には特別なものであるに違いない。

いよいよ天主へ
そして摠見寺跡へ

本丸跡から天主跡へ

今は杉木立に覆われた大きな本丸跡を横にして最後の階段を登ると、これこそが、信長が天下布武のために建てさせた、独創的で絢爛豪華な城の中心、天主のあった場所である。
五重六階地下一階で、最上階は金色に輝き、その下階は朱塗りの八角堂であったとされるが、諸説ありいまだ精確な図面や絵図は見つかっていない。
今は地下部分を取り囲む石垣と礎石のみしか残っていないが、遥かに琵琶湖を見渡せ、近くには内湖が寄せてきている広々とした景色を見渡すことができる。

摠見寺跡

天主跡を後にして、元来た道を戻る。往路には気付かなかった大きな石組みも見えたりするかもしれない。
織田信忠邸跡の三叉路を右へ折れると摠見寺跡へ向かう。
信長が生前に建立した摠見寺。嘉永7年(1854)に主要な建物が焼失してしまうが、二王門(重要文化財)と三重塔(重要文化財)だけは現存している。
調査によると、創建当初には本堂・拝殿・鎮守社・二王門・三重塔・表門・裏門だけであったが、豊臣秀頼が建立した書院・庫裏、江戸時代中期以降に建てられた数棟の建物跡が発見されている。

百々橋口道から受付へ

二王門を通ると、それは百々橋口道。今は管理上の都合で百々橋口には出られない。
道なりに山裾を大手道方面へ戻っていくことになる。
しかしその道はまた趣があり、栄華を極めた信長の安土城を思い高ぶった気持ちをクールダウンさせるのにはとてもいい散策道である。木立の中を通り過ぎると、突如また眼前に大手道が広がるのである。

摠見寺跡の建造物は、
どちらも国の重要文化財。

【三重塔】
国の指定文化財であるこの三重塔。
屋根は本瓦葺き。

室町時代の建物で、棟札に享徳三年(1454)建立、天文二十四年(1555)修理との墨書きがある。
天正三年~四年に信長公が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移築したものとされている。

建久九年(1604)、豊臣秀吉の次男、秀頼が一部修理している。天正三年九月、突然三層目の屋根と一・二層の軒が崩落したがすぐ修理された。平成二十九年の台風の被害があり、平成三十年秋にかけて大屋根をつけて修復が実施された。

【二王門】
楼門と、門内に安置されている木造金剛二力士立像はともに国の重要文化財。

棟木に、元亀二年(1571)七月甲賀武士山中俊好建立、とある。屋根は入母屋造り、本瓦葺き。

国の重要文化財である木造金剛二力士立像。金剛力士像の頭部内側に、応仁元年(1467)因幡院朝作の造像銘が残っており、信長公が天正年間に甲賀から移した。